上の写真は、神戸市の須磨浦山上遊園の鉢伏山から西方、淡路島を遠望したものです。
みどり病院は、淡路島の本州側対岸の内陸部、神戸市西区にあり、1980年の創立です。
当時はまだ神戸市垂水区といい、神戸市西区が分区したのはその2年後で、神戸市営地下鉄・西神中央駅が出来たのは7年後のことです。最寄り駅は、JR明石駅です。
その頃に、私はみどり病院に入職し、みどり病院前の(国道175号の西側に沿った)裏道を車で北に上がると牛舎があり、牛がモーモーと歩いている様子がうかがえる(?)ような区でした。今では、その辺りは、安くておいしい焼肉が食べられる穴場に変わっています。
みどり病院は、創立当初の有床診療所の時代から、小児救急の応需はもとより、地域に出て行き、近隣の公民館(吉田郷土館)を借りて、健康講座と銘打って、地域住民の方々に、身近な病気(高血圧、糖尿病、心臓病など)の予防と治療の情報を提供してまいりました(1981年~)。
また、みどり病院は、病院化(1983年)以降、日常診療に専心する一方で、当時、日本国民を席巻した医学・医療上のテーマである脳死・臓器移植問題が沸き起こり、「死」をどう見るかという日本人の死生観までが俎上にのぼるに及んで、みどり病院は市井の一民間病院でありながら、慎重論の立場から、その解明と世論形成に一役買うことになったのです。その推進役は、創業者の額田勲(2012年没)でした。(1987年、死と脳死を考えるシンポジウム主催)
一方、肝臓がんを誘引するC型慢性肝炎の特効薬インターフェロンの保険適用(1992年)後まもなく、この時代の先端をいく治療法にもいち早く取り組み、その啓蒙活動として、市中に出て行って、後に地域医療セミナー(肝炎セミナー)の名で営々と20回近く開催することとなる教育啓蒙活動を地域で開始しました(1992年~)。
そうした中、1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こりました。みどり病院は、震源地(淡路島)に近い割に、当初ライフラインの途絶に苦しんだ以外、神戸市内の東部に比べて被害が少なかったため、震災直後より、神戸市須磨区太田中学校などで炊き出しボランティア、医療支援を開始し、同年8月より神戸市西区の神戸市営地下鉄・西神中央駅近くに設置されたプレハブの仮設住宅地内に、兵庫県医師会の指導のもと、やはりプレハブの仮設診療所「クリニック希望」を設けて(ボランティア訪問でなく)正規の医療を提供しました。
震災から3年後には、神戸市西区の神戸市営地下鉄・西神南駅周辺にできた復興住宅近隣に、(仮設ではなく)恒常的な診療所「クリニック希望」を新築して移転し、被災者医療を継続、「クリニック希望」は20年後の現在に至っております。
さて、四半世紀を経て、みどり病院増改築竣工(2007年)を契機に、綺麗になったみどり病院の建物自体、身体的な医療提供の場としてだけではなく、地域住民のみなさんや医療者の知的研鑽の場としても開放し、ハードルを低くし出入りしてもらえるような、みどり病院を目指しています。
「みどり病院は医学、医療の学校である。職員(医療者)はそこで患者さんに学び、患者さんはここで病気との闘いを学ぶ。」という創業者の学びの精神を受け継いで、後に続く者たちが、さらに広がりのある、新しいものに、生き生きとチャレンジできるような環境づくりを心がけます。
事務局 津田明彦