2016年2月21日(日曜日)、みどり病院は、神戸市西区の枝吉小学校区ふれあいのまちづくり協議会(略して、ふれ協、または、ふれまち)の一員として、毎年恒例の日帰り研修旅行に参加しました。
枝吉ふれ協の役員をはじめ35名が、バス1台に乗って出掛けました。
行程は、朝8:30、みどり病院の近くの吉田郷土館を出発、兵庫県立考古博物館(大中遺跡。兵庫県加古郡播磨町)、柳田国男の生家(兵庫県神崎郡福崎町)、生野銀山(兵庫県朝来市生野町)を巡り、だんだん日足が伸びてきたので、まだ明るいうちに枝吉に帰り着きました(夕方17:10着)。
最初の見学地、大中遺跡(おおなか いせき)公園では、弥生時代の竪穴住居が、甲子園球場のグラウンド5個分の広さの公園内に、何戸も復元されていました。
学芸員の話だと、県下の小中学生が年間1万人も見学に訪れるそうですが、わざと雨の日を選ぶ教師もいて、生徒たちを竪穴住居の茅葺き屋根の下に入らせ、雨漏りしないことを体験させたりするのだそうです。
また、公園内にある兵庫県立考古博物館の館内には、みどり病院の近所、神戸市西区の玉津田中遺跡(弥生時代)の出土品も多数展示されていて、その中には腰骨のあたりに銅剣の先端が折れて刺さったままの弥生人の出土人骨もありました。
弥生時代から戦争が始まった証左の一つです。
次の見学地、民俗学者・柳田国男(やなぎた くにお)の、移築された生家は、著書『故郷七十年』に「私の家は日本一小さい家」と書かれた家で、松岡家の八人兄弟の六男として生まれ(後に柳田家の養嗣子に入った)柳田国男の一家の、当時の賑やかな声が聞こえてきそうです。
傍らに、福崎町立柳田国男・松岡家記念館があり、そこには、柳田国男が大正10年から昭和37年まで約40年間使っていた書斎机が展示されてありました。
まさに物がそこにあるという感じです。(ちなみに、哲学者・西田幾多郎の言葉に「物となって考え、物となって行う」というのがあります。)
ところで、朝、みどり病院を出る時には、前日の雨が上がり晴れ間が見えて、やれやれと安堵して出発したのでしたが、最後の見学地・生野銀山に着いてバスから降りるや、雪まじりの小雨が降ってきて、ボランティアガイドの話では、この辺りは、「弁当忘れても、傘忘れるな」と言うぐらい、天候がころころ変わる土地なのだそうです。
生野銀山は、開坑から1200年も経た由緒ある銀山で、世界遺産となった石見銀山よりも、銀の生産高は多かったそうです。
年間を通じて気温は摂氏13度に保たれた、蟻の巣のような坑道を、約1時間、ボランティアガイドに案内されて、いつになったら外界に出られるのだろうと不安になるぐらいで、少々くたびれました。
なるほど「山師」という言葉は、鉱脈を掘り当てる事から出た言葉だったのかと納得しました。
また、坑道の所々には、日本酒・ワインの熟成を待つ木箱がいくつも積み上げられていて、ちゃっかり酒蔵としても活用されているので驚きました。(2016年2月22日記。事務局 津田明彦)
※枝吉校区ふれあいのまちづくり協議会というのは、神戸市内の小学校区に一つずつある地域自治組織の一つで、枝吉小学校区内の複数の自治会、老人会、婦人会、子供会、民生委員、青少年育成協議会、神戸市立枝吉小学校PTA、神戸市立王塚台中学校PTA、枝吉児童館、枝吉保育所、それから、みどり病院が構成委員となっています。