先日、知り合いと食事をしていた時に突然
「目、茶色いなぁ!カラーコンタクト?」と聞かれました。
私は生まれつき目と髪が茶色で小さい頃は外国人に間違えられたり、
学生の頃はハーフやクォーター?と聞かれることもしょっちゅうでした。
顔立ちは思い切り日本人なのですが、目や髪が茶色いだけで外国人に見える、『子どもあるある』です。
私の名前を知らない同級生には「あの、髪の茶色い子」と形容されるくらいだったので相当茶色かったのだろうと思います。
自分で自分の容姿は普段見えないので、自分の目と髪が茶色いと特別意識をしたことはほとんどありませんでした。
が、高校生の時に風紀検査があり、ある先生に呼び止められました。
「その髪、染めているやろ」
と列から出され担任に報告するよう言われました。
「地毛です」と慌てて訴えましたが
「そんな茶色い髪が、生まれつきのはずがない」
と全く聞き入れてくれませんでした。
その時私は学校一厳しい部活に所属しており、
校則違反なぞしようものなら鉄拳が飛んできて、こっぴどく叱られること間違いありませんでした。
朝練に、放課後は暗くなるまで外で活動していたため真っ黒に日焼けしており、髪も日焼けで金色になっているところがあったのですが、
一目でその部活に所属していることが分かるほどだったので、それまで風紀検査に引っかかったことは一度もありませんでした。
もちろん厳しい部活に所属していなかったとしても違反などするはずもないほど、自他ともにみとめる『まじめ』な生徒だったので、
自分が呼び止められたと気づかないくらいでした。
これは完全な冤罪です。
身に覚えがないのに「染めている」と言われた不満と、どうなるの?という不安をもって担任のところへ行きました。
幸い担任の先生は、
「あぁ、元々(生まれつき)ですよね」と
教室にそのまま戻るように言ってくれました。
きちんと私たち生徒を見ていてくれた先生のおかげで事なきを得ましたが、
それまで気にしたことがなかったのに自分の髪が茶色いだけでやってもいないことを「やった」と決めつけられた憤りと、
真面目にしていれば誰かが見ていてくれるという安心を同時に経験した、貴重な体験でした。
そのことがあってから、茶色い髪を「いいなぁ」と羨ましがる友人に私は「絶対に黒い髪の方がいい!」と言い、
互いにないものねだりをしていたものです。
大人になってからは、茶色に染めようがカラーコンタクトを入れようが、例えば職場などの規則的な問題がなければもちろん自由です。
「染める必要ないからいいね!」などと時々言われるくらいで茶色いと殊更言われることはなくなりました。
本当に久しぶりに冒頭の言葉を聞いて学生時代の出来事を懐かしく思い出しました。
そして、いつの間にか外見の違いに憧れることよりも、その人間性や、仕事のクオリティーやスピード、
意識の持ち方など相手の内面や技能などに目が向くようになったと改めて感じもしました。
どうしたら、○○さんのように患者さんのちょっとした異変にも気づくことが出来るのかとか、
△△さんのように丁寧・正確かつ迅速に業務を行うためにはどうすれば良いのかとか…。
また、自分に非がなくても頭を下げなければならない場面もあります。
髪を染めたり、自分のしたいことができて大人はいいなぁと思っていたのに、いざ大人になると、
子どもの頃は色々なことに守られていたのだなと気づき
「あぁ、子どもの頃に戻りたい!」と一度は思う『大人あるある』の、ないものねだりです。
外見はいくらでも現代の技をもって変えることができますが、仕事の技術・技能は自分次第、お金で買うことはできません。
『経験はプライスレス』というCMがありましたが歳を重ねるにつれ、
本当に自分の欲しいものは経験・努力以外で手に入れることはできないのではと感じています。
「いいなぁ」とないものねだりをしているだけでは、こうありたいと願う自分に近づくことはできません。
いっそのこと学生の頃のように「やってはいけません!」と決められる方が
「本当はやりたいんだけど…」とやらない言い訳にできるかもしれませんが
それもつまらない。
孔子は15歳で志を決め、30歳に独り立ちし、40歳の時には迷うことがなくなったそうです。
私はやっと最近志が見え始め(た気がする)、独り立ちには程遠いですが
今までの人生で得た学びを活かせるように努力をし続けたいと思います。
周りの頑張っている人たちの姿に刺激を受けつつないものねだりで終わらないよう、
挫けそうになった時には、鏡に映る自分の目をみて頑張りたいと思います。
あと一つ、自分の尺度で相手を決めつけ、傷つけることのないよう
心の目でみることも大切だと改めて思い出しました。
苦い経験からも、学びはあるものですね。