定年退職後だからできる私の役割

阪神淡路大震災があったのは平成7年1月17日未明でした。
このことがみどり病院に入職する大きなきっかけになったことは確かです。

その頃私は看護師として小さな産婦人科の医院でパートとして働いていました。
産婦人科での経験はそれまでなかったので、先生、先輩看護師さんの指導の下、必死で頑張っていたように思います。
その頃既に60歳は優に越えた助産師さん、看護師さんが生き生き働いておられ、妊婦さん、新生児への眼差しが素敵でした。
私もそこで働くのなら、助産師さんを目指して勉強することも考えていました。
そんな時、震災が起き、沢山の命がなくなり、多くの方が避難生活を余儀なくされました。
そのような現実の中、医院を閉院しようと考えていると告げられ、もうそこで働けないのかと悲しくなりました。
次の就職活動をするとなると、また違う事を最初から勉強し直さなければならない、と考えると気持ちが重かったのも確かです。
しかし、私も30代後半にさしかかっていたので、このままでは看護師としてのキャリアを積めなくなる、と焦りもありました。
そこで自宅からも近くのみどり病院に就職することになったのですが、今と違いインターネットもないし、記憶によると新聞の職員募集の広告を見たのがきっかけだったと思います。

平成8年4月、みどり病院に就職。
元々夜勤は苦手ということもあり、日勤常勤という条件での就職でした。
現場に入ると震災後ということもあり、仮説住宅に小さな診療所が造られており、そこの見学、往診の見学など、今まで経験したこともないような研修から始まりました。
院内も震災後、西区に来られて入院となった患者さん、また身寄りのおられない患者さんの入院が多かったように思います。
就職してからは多忙でした。
自分の仕事のこと、こどものこと、家庭のこと、無我夢中という言葉がそのまま当てはまるような生活でした。

徐々に仕事に慣れ、副主任という役割を引き受けることになり、ますます多忙な毎日でした。
現在の看護部長の丸山さんには色々配慮していただきました。
「副主任さんだから皆が見ているよ。言動のひとつひとつを職員、患者さん、ご家族が見ているよ。気をつけて、自分の思いをそのまま言葉にするのではなく、一歩置いて話すように。責任ある立場だから、いいときはいいけど、ひとつ間違うと大変ですよ。」といつも話して下さいました。
部長はたとえて話してくださるのが上手で、私にもよく分かりました。

平成15年、みどり病院が医療法人化され、平成19年、新病棟開設となりました。
この頃から、医療もサービス業というフレーズをよく耳にする様になりました。
その頃からサービス向上委員会も立ち上がり接遇のことなど学習する機会も多くなりました。
平成21年6月、ファーストレベル教育課程研修への参加をさせて頂き、多くの病院から素敵な看護師さんたちが集まり、自分の病院での取り組み、がんばっていることを話す機会があり、看護学校を卒業してから何十年ぶりになるのか、机上での毎日で、新鮮でもありました。
この研修を受ける時、若い看護師さんから、「何でこの研修を受けたのですか?」と言う質問がありました。
「そうだね、私よりもっと若い人に行ってもらった方が良かったかも」と答えたことを覚えています。
でも参加させてもらって、自分がなぜ看護師を目指したのか、学生の頃のように考える機会になり、少し成長できたと確信しています。
当院でも人工透析、心臓カテーテル検査・治療などの専門的な治療も開始となり、みんな必死に新しいことを学び、仕事をしていたように思います。

色々な歴史がみどり病院にあり、私もその中のほんの一部になったことを誇りにしたいと思います。
今後新しい世代の人たちが新しい歴史を作り、私は、地域での役割が果たせたらと思っています。
私は、平成30年5月を持って一旦定年退職となりました。
もう少しの間、3階スタッフとして働かせてもらいますが、看護部長からは、「長く経験を積んだ自分の役割はどのようなことなのか考えて欲しい」という話がありました。
今後、『自信を持って、新しい人たちにみどり病院の歴史を語れる存在、そしてみんなの思いを聞かせてもらえる存在になる』を目標に、定年退職後もみどり病院のお役に立てればと思います。