住む場所は変わっても 変わらない信念で〜地域の人々と共に、暮らしと医療を育んでいくために〜

7月から地域連携室に入職いたしました出口まゆみと申します。
これまで過ごしていた大阪を離れ、以前から憧れていた移住を決心して淡路島に引っ越してきました。みどり病院に入職した経緯や淡路島での生活についてご紹介します。

[医療・福祉・介護の分野に携わって]

出身地の大阪では、学生の頃に通っていた手話講習会をきっかけに「障害のある人もそうでない人も区別なく、より多くの人が安心して生活できる社会づくりに貢献したい」と思うようになり、福祉分野の道に進みました。障害者就労施設の生活支援員として勤務し、障害のある方の就労・自立・社会参加を支援する仕事に10年ほど関わってきました。

その後、同じ手話講習会に通っていた医療従事者の方に「病院で障害福祉の経験を生かして働いてみませんか」と声をかけていただいたことが、地域連携室という部署との出会いです。来院された患者さまがスムーズに安心して受診できるよう、また手話通訳や筆談が必要な患者さまのサポートもさせていただきながら、前方連携業務(紹介受診・精査・入院の受け入れ)に携わってきました。

地域連携室の仕事にやりがいを感じた一番の思い出は、「入院費用が高い」と怒った様子で窓口に来られた患者さまの対応をさせていただいた時のことです。じっくりお話を伺い、診療明細について丁寧に説明したところ「あんたに聞いてもろて良かった。よぉ分かったわ、ありがとう」と納得して下さり、笑顔で無事退院されました。常に相手の立場になって考えること・自分がされて嬉しい声かけや丁寧なサポートを心がけながら、この仕事を続けていこうと強く思える経験となりました。

[大好きな祖父母の住む淡路島へ]

私の祖父母は淡路島在住で、主人の祖父母は愛媛県宇和島市在住です。そのおかげで海も山も大好きな私たち家族は、いつか地方へ移住したいという夢をずっと描いていました。10年ほど前、介護が必要となった主人の祖父母と同居するため、豊中市に住んでいた叔父夫婦が宇和島へ移住しました。

都会で生活していた航空機パイロットの叔父とCAの叔母の決断は、まだ漫然としか移住を考えていなかった私たち家族にとって大きな刺激と影響をもたらしました。そしていつか私の祖父母が介護を必要とした時は、迷わず淡路島に渡って少しでも役に立とうと決め、数年の構想と準備を経て移住が実現したのでした。

[家庭菜園から広がる地域交流の輪]

ところで、私が生まれ育った大阪市大正区という町は沖縄出身の方が多く住んでいて、沖縄の郷土料理もたくさん味わうことができます。家庭菜園に挑戦してみたかった私は、沖縄料理のゴーヤチャンプルを思い出し、移住後すぐに自宅でゴーヤを育ててみることにしました。ご近所の方に土づくりや栽培のコツを教わったことから交流が広がり、夏には地域の祭りや盆踊りにも参加しました。また淡路島にも活動している手話サークルがあることも教えていただけて、移住生活は今後ますます充実しそうです。

さらに地域の方と交流する中で、淡路島から神戸方面の学校や職場に通っている方も多いことを知りました。病院の相談員として経験を積み、社会福祉士を目指したいと思っていた私は、周りの方や島内の知人に移住後の仕事について相談してみたところ「島外になったら通勤が大変かもしれないけど、夢は諦めないで挑戦してみたら」と背中を押してもらえました。そのおかげもあって、この度みどり病院の地域連携室に入職することとなりました。

[夢や目標を諦めずに]

初めてみどり病院を訪れた時から、挨拶を大切にする明るい雰囲気が私のお気に入りです。「こんにちは」「お大事に」のひと言でお互いの緊張がほぐれて気持ちが和みますし、前向きな気持ちにもなります。私もみどり病院スタッフの一員として、笑顔と挨拶の輪を広げたいと思い入職しました。

そして現在、優しくカッコ良くスマートに仕事をこなす地域連携室のスタッフのみなさんに日々の業務を教えていただきながら、楽しく仕事をしています。趣味であるバドミントンも練習拠点を大阪から淡路島に移し、最近は神戸市内の体育館や小中学校の練習会にも参加しています。

人の心の中は日々の生活の中で、毎日いろんな思いが巡り、ポジティブになることもネガティブになることもあります。年齢を重ねるごとに病気や介護など生活への心配事に悩まされるかもしれません。そこに共感し寄り添う気持ちを大切にしながら、みなさまの不安を少しでも解消できる相談員になれるよう努めてまいります。これからどうぞよろしくお願いいたします。