普通でなくてOK!!うちの子、自閉症スペクトラム症です。~訪問看護に導いてくれた息子に感謝~

私は20年間訪問看護師として働いています。私にとって訪問看護はやりがいが大きく、その醍醐味を味わう毎日です。
しかし、訪問看護に出会うまでには色々な道のりがありました。大きなきっかけとなったが、息子の存在です。今日、私を人として、母として、看護師として成長させてくれたこと、そして今に至るまでのエピソードをお話しします。

私の二人目の子供は両側の口唇口蓋裂で生まれました。生後3か月で口唇の手術から始まり、口蓋の手術、口唇の形成術、歯肉への腸骨の骨移植など数えきれないほどの手術を受け26歳になる現在も歯列矯正を行っています。
2~3歳の頃のことを思えば、何をするかわからず、常に視野に入れておかなければ安心できない状況でした。口蓋裂で手術を受けるなど身体的に負担をかけているため、発達が遅れているのだろうと思い、そして思おうとしていました。でも5歳時児童館の通園前の遊びに参加しても、一人滑り台で遊び、簡単な遊びも参加できず、私も孤立していたように思います。

~保育園から小学校~

上の女の子は2年間の幼稚園に通園しました。しかし、2人目の息子は普通の幼稚園では無理だ、小学校近くの保育園で面倒を見てもらえないかと考え、直接保育園に相談をさせてもらいました。今では考えられないことで、よくそんなことしたなあと思います。
その保育園は可愛い制服のある所でしたが、うちの子はかぶりのトレーナーかTシャツしか受け付けず、前ボタンのブラウスなんて入園式と卒園式、あと数えるくらいでぴかぴかのままでした。このころからやっぱり違っていました。でも保育園では手厚くお世話をしていただき、2年間を楽しく過ごしていたように思います。

~少し声を掛けてくださいとお願いしていた小学校~

小学校は保育園と違いました。
1年生の頃、算数のたし算、ひき算のプリントですべて間違いなのに丸がついていました。担任の先生に聞いたところ、早く出したことをみんなの前でほめているのだとのことでした。私は理解ができず、1問でもいいからできるように教えてあげてほしいとお願いしましたが、理解してもらえず、直接校長先生にお話をさせてもらい、以降は担任の接し方も少しは変わったようでした。
やはり遅れているな、少し違うなとずっと思っていましたが、誰も言ってくれる人はいませんでした。
うちの子はあまり友達もできず、寂しい思いをしていたのだろうと思います。
6年生の時、家庭科でミシンを使ってお弁当袋を作るという授業があり、うちの子は材料のままで持ち帰ってきました。一人だったのでミシンの使い方もわからず、先生にも聞けなかったと話す息子。私は心の中で泣きました。でももう6年卒業前、「何にも言わないでおこう」と心の中にしまいました。
私は小学校の間、学年が上がるたびにうちの子の状況を手紙に書いて担任に渡していました。うるさい母親だったんでしょうね。

~ほとんど休まずに通った中学校~

中学生になった6月にけいれん発作があり、その12月に2回目のけいれん発作があり、抗けいれん剤を服用するようになりました。それに関して修学旅行時など担任を通じ養護教諭の先生に伝えていましたが、全く伝わっておらず、担任への不信感がつのったことを覚えています。
テニスクラブに入っていましたが、6本もラケットを折り再々買い替えました。なかなか口で表現できないことをラケットで表していたのでしょう。
中学生の頃は口蓋裂による鼻の変形、人との関わりの苦手さから、居辛さを感じていたと思いますが、ほとんど休むことなく通学したことは立派だったと思います。
何かイベントがある度に、うちの子が困らないように前もって準備をしたり、家で練習をしたり先回りをしていたように思います。

~資格取得に頑張った高校、専門学校~

どうにか工業高校にも入学し、自動車整備の学校も卒業し資格も取得することが出来ました。専門学校中に呼び出しがあり、何かアルバイトをするように勧められましたが、学校とアルバイトの両立は私が無理と判断し勧めませんでした。そして就職先が決まらないまま卒業しました。

~一人で社会に~

息子は卒業後、簡単なアルバイトを父親の紹介で始めましたが、2~3か月続きますが、人間関係につまずきやめてしまうことが続きました。仕事を休まないように出勤を見送ってから仕事に行く時期もありました。6か月ほど引きこもり状態が続きました。
仕事を選ぶことより人間関係を作る事が問題と考え父親の勧めもあり、発達障害者相談窓口へ相談をしました。そして、就労移行支援事業所の利用を決めました。(自立支援受給者証を持っていたのですぐに利用ができました)同時に療育手帳の取得を進められ、更生相談所で検査を受け、自閉症スペクトラム症と診断を受けました。やはりうちの子はアスペルガーでした。今までおかしいと思っていたことが納得できたように思いました。
就労移行支援事業所では、コミュニケ―ションや人との関わり方を学び、その後就労に向け自己理解、マナー研修をチームで学び、約2年を経て現在の仕事に就いています。息子は、「就労移行支援事業所に通えて本当に良かった。話せる人ができた。」と話しています。しかし、金銭管理はできず、メルカリでびっくりするくらいの請求があったりしますが、少しずつ諭し、自分の事として責任が持てるように声かけをし、見守っています。

~今思えば~

今思えば小さな頃からおかしいな、変なんちがう?いやいや、口蓋裂で手術を受けたから発達が遅れていると思おうとしていたと思います。
小学校の担任も責任があるから遅れているとは言えなかったのだろうと思います。
やはり親がしっかりと見てあげる、そして行動することが大切と思います。
うちの子は友達もあまりいないようです。映画やUSJも私と一緒に行きます。フライングダイナソーってなかなか怖いんですよ。
いつかは普通になると願ってきましたが、現状は変わらないことがわかりました。うちの子が幸せで、どうにか暮らしていければ普通なんてくそくらえです。
私は母親としてもう一つ気になっていることがあります。上の子のことです。今は結婚し独立していますが、下の子の出産後はずいぶんと我慢をさせたと思っています。物わかりのいい子やからと安心していましたが、いつか、「私の勉強はほとんど見てもらわへんかった」とポツリと言った言葉はショックでした。子供なりに辛かったんでしょうね。本当にごめんね。

~終わりに~

うちの子は、口唇口蓋裂で、自閉症スペクトラム症です。出産後、私は看護師として偉そうに仕事をしていたことが恥ずかしく落ち込みました。そして、仕事に復帰することが怖くなりました。でも、うちの子を保育所に入れる為、訪問看護やったらできるかなと甘い考えで訪問看護の門をたたきました。ブランクもあり、知らない事ばかりで毎日戸惑うことばかりでしたが、自宅に訪問し、密に接することにより信頼関係が築かれ、達成感も得られるようになりました。私が訪問看護に出会えたのも、うちの子を保育園に入れたいという一心からでしたが、この仕事に出会わせてくれたうちの子に感謝です。
11月17日の神戸マラソンンにうちの子が、初マラソンで参加しました。途中で弱音をはく息子を、私の姉は励まし、最後まで並走し、完走する事ができました。姉や応援し協力してくれた皆様に感謝です。
人間いろんな人生がありますが、それぞれの立場で自分を活かせたら楽しいと思います。私61歳まだまだ輝きますよ。やりたいこといっぱいです。