ある家族のコロナ奮闘記~今を大切に生きること、人間の逞しさと温もりを感じて~

2020年に新型コロナの感染が急拡大してから早くも3年が経ちました。
コロナとの生活も4年目になります。当初に比べると、社会は落ち着きを取り戻しつつあるように思いますが、みなさまはどうでしょうか。
一人一人、それぞれの家族によって様々な出来事や思いが駆け巡った3年間ではなかったでしょうか。
私事ですが、この3年間を振り返ってみたいと思います。

2020年1月15日、日本で最初の新型コロナウイルス感染者が確認されました。

得体の知れない感染症にこれから何が起きるのか、日々おびえていたように思います。
そのような中、2月に義母(当時90歳)が体調を崩し、入院となりました。検査の結果、細菌性髄膜炎、感染性心内膜炎、侵襲性肺炎球菌感染症、急性腎盂腎炎との診断でした。
さらに入院2日目に転倒。右大腿骨の大転子部を骨折してしまいました。状態が状態だけに手術はせずに、保存的にみていくことになりました。

3月東京五輪・パラリンピック開催延期、全国一斉の臨時休校。
当初は3月2日から春休みまでとされましたが、4月1日に全国に緊急事態宣言が発令されるなどして期間が延長され、多くの学校は6月まで再開を待つことになりました。
さらに3月29日 志村けんさんの死去、4月1日にはアベノマスク配布が発表されました。

志村けんさんの死去はコロナというウイルスが子どもたちの中でも恐怖として植えつけられたように思います。

一方、私の義母は、入院当初は意識も混濁し、意思疎通もできず、このまま寝たきりになってしまうのではないかと思いましたが、治療やリハビリの甲斐もあり、6月には退院することができました。
入院前はサービス付高齢者住宅で生活をしていましたが、今回のこと、これからのことを考え、同居という選択をしました。同居に向けて住宅のリフォームを行いましたが、コロナ禍ということもあり、打ち合わせや工事に思った以上の時間がかかったように記憶しています。

6月義母が退院し、同居がはじまりました。
コロナ禍が幸いし、主人の仕事もテレワークが多くなり、思った以上に介護に協力してくれ(夫婦で半々の役割分担)、とても助かりました。入院中から義母は食事摂取時にムセがみられ、食事の形態はムース食に近い物でしたが、状態が安定していくとともに普通食(細かくカット)になっていきました。

退院してくる義母との生活に、私は子どもたちがどんな反応をするのか、少し心配していました。しかし、これもコロナ禍が幸いしたのか(非日常的なことが続いた影響?)、ドタバタの中での義母の退院は、子供たちにとって「いつの間にかおばあちゃんがやって来た」という感じで、特にストレスなく受け止めてくれました。

2021年2月、医療従事者へのワクチン接種がスタート。7月無観客で東京五輪・パラリンピック開幕。
11月オミクロン株、国内初確認。
2022年1月から3月にかけて第6波の襲来。

そして、新型コロナ蔓延から2年経った2022年3月、ついに私もコロナに感染してしまいました。家族、特に高齢の義母への家庭内感染を心配しました。私は自分が感染しているとわかった時点で、2階の部屋に閉じこもり、トイレも2階のトイレを使用し、家族と生活の場を完全に分けました。

それでも、家族に感染させないか、大きな恐怖があり、ホテル療養を希望しました。折しも、感染拡大でホテル療養を希望する方も多く、すぐに入ることはできませんでしたが、感染から1週間後にホテル療養に切り替えることができました。その時は、ホッとすると同時に「やっとお風呂に入れる」と思ったのを鮮明に覚えています。

5日間、ホテルで一人きりの生活をしました。幸い、つらい症状はなくなっていたので、当初は、何となく優雅な気分で過ごしていましたが、家族や社会との断絶、一人きりでの空間がさみしく、虚しい気持ちでいっぱいになりました。「何でこんなことになってしまったのか。業務の中で感染に至った原因はないのか?」と自分自身の看護をじっくりと振り返りました。

コロナ禍に限らず、感染対策を含めた、最善の看護とは何か。今、何が必要であるのか…余計なものを削ぎ落す、省いていくことも必要であること。俯瞰で物事を捉え、考えていくことの必要性を学んだように思います。

そして、そんな中、実父が呼吸苦で緊急入院したと姉から連絡をもらいました。コロナ騒動になってからラインや電話でのやり取りで、1年以上会っていない状況でした。その年の年末に‘胸の痛みや背中の痛みで寝るのが辛いけど心配しないで’と連絡をもらっていましたが…いろいろ検査した結果、実母と同じ悪性胸膜中皮腫でした。実父にとっても、家族にとっても、この病名は晴天の霹靂で、実母が亡くなって25年以上経過しているのに、何で…という思いでした。

4月実父の病状が安定し退院。5月治療方針が決定し、3週間ごとにオプシーボ・ヤーボイ併用療法 注1)を行うことになりました。医療の日進月歩に驚き、実母の時とは違う結果が出ることに希望を見出すことができました。

2022年7月から9月にかけて第7波の襲来。

今度は義母がコロナに感染し、次々に家庭内感染が起こりました。私以外の家族が全員コロナに感染してしまいました。義母は一時、酸素飽和度が下がり、入院治療の話が出ましたが、入院すると毎回転倒し骨折していたので、主人と相談し、自宅で療養することにしました。
在宅酸素療法を導入しましたが、1週間ほどで何とか病状が安定し、ADLの低下もなく、回復することができました。義母→主人→娘→息子へと2日毎に感染していきました。

子どもたちは楽しみにしていた小学校での縁日に行けなくなり、特に娘は一日中泣いて悲しんでいました。子どもたちはその時点ではまだ発症していなかったこともあり、元気一杯。隔離生活への不満や窮屈な生活へのストレスでおかしくなっていました。

少しでも気持ちが前向きになるように、自宅で縁日のまね事をしたり、トランポリンを買ったり‥どうにかできないかと私も必死でした。そうこうしているうちに娘が高熱を出し、息子も高熱を出して胸を痛がり、救急車を呼んで病院に行ったというエピソードが加わります(いろいろ検査してもらいましたが、何事もありませんでした)。

2022年10月第8波の襲来。

2022年12月義母が二度目のコロナ感染。今回は他の家族に感染することなく、義母も1回目の感染のように呼吸状態の悪化もなく、回復することができました。

2023年5月8日新型コロナ感染症の位置づけが「新型インフルエンザ等感染症(2類相当)」から「5類」へと変更。

いろいろあった3年間ではありましたが、義母は今年の1月4日に93歳となり、3回/週ディサービスに通っています。コロナに感染したことはすっかり忘れてしまっているようです。
実父はオプシーボ・ヤーボイ併用療法の副作用である体の痒みはありますが、3週間ごとの治療を続けることができています。腫瘍の痛みは医療用麻薬の使用にてコントロールできており、良い状態を保つことができています。この状態が長く続くことを願っています。

コロナ禍になってからは、外出自粛が呼びかけられ、友人と会う時間、離れて暮らす家族に会う機会が極端に減り、子どもたちも新しい出会いや経験の機会を失ってしまいました。多くの飲食店で営業時間が短縮され、会社では在宅勤務、学校などではオンライン授業の導入が増えました。

非対面コミュニケーションは、時と場合によってはとても便利な物ですが、非対面コミュニケーションでは分かり得ない、直接会って話をし、その時の表情や声のトーンや仕草を感じることのできる対面コミュニケーションの大切さを今回のコロナ禍、実父の入院の件で知ることができたように思います。

まだまだコロナ禍以前のようにはいきませんが、人と人との血の通った繋がりを大切に、家族や友人、職場の同僚達とのかけがえのない日々を過ごしていきたいと思います。

注1)オプジーボ・ヤーボイ併用療法とは
2種類の異なる免疫チェックポイント阻害薬を組み合わせて用いる治療法です。
オプジーボとヤーボイは、T細胞にかけられた免疫のブレーキを解除する働きがある「免疫チェックポイント阻害薬」です。オプジーボは「PD-1」、ヤーボイは「CTLA-4」と呼ばれるT細胞のアンテナにそれぞれ結びつくことで、抑制信号をブロックし、免疫のブレーキを外します。これによってT細胞は、妨害を受けることなく、再びがん細胞を攻撃できるようになります。
オプジーボ・ヤーボイ併用療法は、2種類の免疫チェックポイント阻害薬を組み合わせることで、がんに対する攻撃力をさらに高め、より効果的な治療を行うために用いられます。

参考:小野薬品がん情報 一般向け
https://p.ono-oncology.jp/drug/opdivo/